何重奏かわからない

ADHDで二次障害ありで他にもいろいろ

差別

女性差別には敏感なくせに他の差別には鈍感な人、よく見かける。大抵は学歴差別ルッキズムだけれども。それって許されるのかな。色々な差別の中で女性差別だけが解決されるとでも思っているのかな。女性差別が無くなるときってそれは他のLGBTとか人種とか精神障害とかその他色々な差別も含めて一緒に解決されるときだと思う。というか社会がそれだけ成熟した時だと思う。なんか悲しくなった。一つの差別だけが解決されるわけではないのだから、色々な差別を解消できるように支持しなければならないのではないのかな。

バランス感覚

twitterで物事にたいして全く自分と異なる考えをもつ人を何人かフォローしている。自分の物事にたいする認知の歪みを少しでも修正出来るのではなかと期待して。

全く違う考えをもつ、というより一つの物事に対して沢山の気付きを得られる人というほうが近いかもしれない。わたしは大雑把でずぼらで細やかな気遣いができないので、その人達の考えや意見には驚くばかりだ。どうしてもっと一つのことにいろいろな配慮をできないのだろう、自分は。まあこういう行為はある程度心に余裕が無いとできないので程ほどにしなければ。

許さない人

昨日考えていたことを「謝罪 認めてもらう」で検索したらいくつかヒットした。

許さない人にたいする、たった一つの対抗策。

この記事を読んでなるほどと思い、今度は「許さない人」で検索したらかわりに「許せない人」としていくつかヒットした。やはりいつまでも恨みを抱えているのは良くない状態らしい。

許せない、ということはいつまでも自分を被害者に、相手を加害者においておくということで、「奴のせいで幸せになれない」という状態を引き起こしてしまう。もし加害者よりもより優位な立場で幸せにくらしたいなら、彼等を自分の中から追いださなければならない。もし少しでも"やつら"のことを考え出したらすぐに切り替えて別のことをする・考える癖をつける必要がある、ということらしい。

許そう、許せないなら追いだそう。

調子が悪い

どうも精神的に調子が悪い。ここ数日恥ずかしい思い出がフラッシュバックする頻度が高くなった。

恥ずかしい思い出がフラッシュバックするたび叫んだり独り言をつぶやいている。

これに関連して、どうすれば自分が反省したということを他人に認めて貰えるのかということを考えはじめた。わたしの恥ずかしい思い出はただ他人に恥をかかされたり自分が失敗して恥をかいたりしたという内容だけではなく、一人の人間として恥ずかしい行為をした(ex:他人を傷つける)というものも含まれているからだ。

わたしはいま自分の様々な事柄について反省しているつもりでいる。それをどうに関係した人々に理解してほしいとも思っている。どうやらこれが難しいらしい。どう考えても許されない。わたしはわたしを傷つけた人々を許したつもりでいるのに。これでは世の中で私一人だけが許されない・和解出来ないでいるみたいだ。

一言で表すと、わたしは許したからあなたも許して、ということだ。こうしてみると図々しい。かといってじゃあわたしも許さない、という態度だと過去の恨みをずっと引きずることになるので苦しい。水に流しましょうという表現はどうやって生まれたのだろう。世の中には水に流すことを許す人なんて一人もいないように思える。

成長

自分が少し成長した、と考えることにする。

というのもtwitter発達障害当事者の呟きをROMっていると最初は学級委員タイプ(悪くいえば名誉定型発達者)の呟く内容が我慢ならなかったのだが、最近はどうもそちらの方が腑に落ちるのだ。

なにせ普段発達障害者は嫌な目に多分にあっているだけに定型発達者や定型の社会について言う内容が攻撃的だ。twitterくらい自由に文句を言わせてくれ、という風に。その点定型側に立つ学級委員タイプは良くも悪くも冷静になって分析し「では我々発達障害者側はこういう対策を取ることにしましょうね!」とさとしてくる。

今までは私もネットでくらい文句を自由に言わせてほしいし、その分言葉遣いも荒々しく、学級委員タイプの諭しにも押し付けがましさを感じていたのだが、最近はどうでも良くなってきた。どちらのこともだ。どちらにも共感出来ないし、私は私。無理に流れを読むことはないのだと考えることが出来、執着しないようになってきた。

発達障害者はたとえ同じ障害を負っていてもそれぞれの条件や環境が違い過ぎるし、その中の多数派を無理に追おうとしても意味がなく、私は私なりに解決策を見出だしていくしかない。今の孤独な現状を打破出来るのは私だけなのだ。あえて助けを求めるとすれば精神科の専門家たち、つまり定型発達者だ(少なくとも定型に擬態できている)彼ら精神医学と心理分析のプロに頼ることこそ現状打開への近道なのであって、この点に関しては殆ど素人でありただ同じ障害があるという共通点しかない発達障害者に助けを見出だすのは無理だ。定型発達に必死に擬態しようとしている学級委員タイプの話を聞いた方がまだマシに思える。私には共感は必要でも仲間意識はいらない。そういうことがわかるようになってきた…気がする。

キャロルとの1年

この1年ずっと柿沼瑛子訳の「キャロル」byハイスミスを読んでいる。

映画をみてその映像美に感動し、翻訳版の表紙がエドワード・ホッパー、電子書籍あり!買わないわけがない。そしてこの1年ずっと外での待ち時間をキャロルを読んで潰している。

別に大して起伏のある話というわけではないのに全く飽きない。何度も何度も読み返している。ミセス・ロビチェクの場面は覗いて。映画と違ってテレーズの心情を読むことができ、あ、私テレーズのことあまり好きじゃないな~というのが新しい発見だった。それからキャロルの前愛人アビーとの関係も知ることが出来たのが良かった。なんとアビーは昆虫学者だという。STEM女子だーかっこいいーというのがアビーへの感想。私は舞台美術家のテレーズより昆虫学者のアビー派だ。キャロルは元家具屋オーナーだからテレーズとは舞台美術について話したりもするのかな、という想像もめぐらせたりした。